· 

子どもに「考える力」をつけるために、子ども自身に「選ばせる」。子どもの選択を認めることは、子どもの自信につながります!

「今日はどの洋服を着よう」

「朝ごはんはごはんかパンどちらにしよう」

「休み時間に何して遊ぼう」

「帰ったら宿題とゲーム、どっちを先にやろう」

 

子どもたちは毎日、選んでいます。

 

たくさんある選択肢の中から一つ選んで行動しています。

 

 

「人生は選択の連続である」というのはあまりにも有名なシェイクスピアの名言ですね。

 

日々の選択に「人生」を持ち出してはおおげさな感じもしますが、こんな場面ではまさに「人生の選択」と言えそうです。

 

「高校や大学にいくかいかないか」

「何を学ぶか」

「どの学校を受験するか」

「どんな仕事をするか」

「どの会社を受けるか」

「内定をうけるのか、辞退するのか」

「転職するかどうか」

「彼女と結婚するのか、しないのか」

「どこに住むのか」

「家を建てるかどうか」

「単身赴任か、家族で引っ越しか」…

 

 

日々の選択の先に、人生の選択があります。

 

たとえば服を選ぶ、何して遊ぶ、そんな小さな選択でも、自分で決めずにお母さんに決めてもらうことを続けていたら、「自分の基準」を作れないままになってしまいます。

 

 

それは、子ども自身が「なにを大切に思うか」のモノサシがないということです。

 

 

それまで「自分のモノサシで選ぶ」ことをしてこなかった中学3年生、高校3年生。

 

いきなり「進路を考えましょう」と言われても、なかなか決められずに迷ってしまうのは、そんな「自分の基準やモノサシ」がないために、他人の意見に戸惑ってしまうからです。

 

そして、なんだかもっともらしい「偏差値」というモノサシだけで、進路を決めることもあるでしょう

 

「あなたの学力で行ける高校、大学はここですよ」

 

 

子どものうちは「夢をもつ」ことがよしとされるのに、進学のタイミングで夢を追いかけることにストップがかかる。

 

子どもの可能性は無限にあると思われていたのに、「偏差値」ではかられた結果、諦めさせる。

 

これに違和感を感じませんか?

 

 

 

日々の選択に「自分の基準」があれば、大きな選択で迷わない。自分で選ぶという経験の積み重ねが、「自分の基準」をつくる。

 

 

 

たとえば女の子が洋服を選ぶとき。

 

「今肌寒いけどお昼には暑くなるみたい」

「今日は体育ないから私服でいこう」

「新しい洋服をきたいけど、学校に来て行くには派手かも」

「帰ったらお友達の家に遊びにいくときに着替えよう」

「この組み合わせわたしに似合ってる?」

 

きっと言葉にしないけれど、何を着るかだけでいろいろ考えていますよね。

女性に置き換えていただいてもわかりやすいと思います。

 

 

このとき、子どもはどちらを優先するのかを「考えて」います。

 

「どちらにしたらどうなるか」を頭のなかでシュミレーションして、より自分にとって良い方を「選んで」いるのです。

 

 

暑くなったら脱げる服がいいかな。

わたしはこの色が好き。

この組み合わせが好き。

おしゃれすぎるから、学校には来ていくべきじゃないかな。

 

 

そうして選んだ結果、

「暑くなったら調整できる服でよかった」

「この組み合わせがいいと思ったけど、やっぱりちょっとちがったかな」

「お友達の洋服の組み合せいいな!今度マネしてみようかな」

 

 

なんてことを毎日繰り返しながら、自分が服を選ぶ基準を作っていくことができます。

 

 

これを自分で決めずに、お母さんが決めるとしたらどうでしょう。

 

子「新しい洋服を着ていきたいな〜」

母「学校に着ていったら汚すから、こっちにしなさい」

子「これ好きじゃないよ」

母「寒いからこれがいいよ、風邪ひくよ」

子「え〜じゃあそうする」

 

 

「お母さんがこれ着て行ってっていったからそうしたのに、暑かった!」

「お母さんのせいでこの色の組み合わせ変だって言われた!」

「あの新しいお洋服着たかったのに!」

「お母さんがこうしなさいって言ったからこうなったのよ!」

 

 

と思ってしまったり、実際にそう言われることがあるかもしれません。

 

 

そして自分で考え、選ぶ機会がないことで次にどのように選んでいいかの基準も作れないままです。

 

自分で選んでいれば、その結果を受け入れて次に活かそうと思えます。

 

 

これは小さなことに思えるかもしれません。

 

だけど、「自分がどう考え、なにを大切に思うか」。

それを「考える」習慣ができるのは、小学生頃までの影響が大きいと、私は考えています。

 

 

 

高校卒業後どうするか。選択肢が突然増えるために、自分の基準がないとどうやって選べばいいのかわからなくなる。

 

 

小、中学校は義務教育です。

高校は、一般的には学力レベル、偏差値に応じて家から通えるところを選ぶでしょう。

(高校に行くかどうかも選択ですが、ここでは省きます)

 

では大学は? 進学するのかしないのか。

また、たくさんある学校の中から、「何を学ぶか、どこで学ぶか」を自分で考えて選択できるでしょうか?

 

 

それまで自分で考えて選択してこなかった子が、高校3年生になったからといって急にできることではありません。

 

 

自分が何をしたいかがわからなければ、何を基準に選ぶのでしょう。

 

 

実は私自身、お世辞にも自分でよく考えて選んだとは言えませんでした。

 

「国立大学だったら世間体もいいかな、学費も安いし」

「実家から離れるのは不安だから、県内がいいな」

「法学部はつぶしが効くらしい」

「私立はお金がすごくかかるらしい」

 

 

そこに「自分がどうしたいのか」はなく、「世間的にそうらしい」という本当かうそかわからないような基準。

 

受験校で何を学べるかさえ、調べもしていません。

 

 

でも当時は、どうやって選んだらいいのか自分の基準なんてなかった。

それは、子どものころから「自分がどうしたいのか」を「考えて」なかったからだったと、大人になって気づきました。

 

 

 

 

選択肢は、いつも無限にある。大人の提案がすべてではありません。

 

 

「選ぶ」といっても、何から選ぶのでしょうか。

 

大学でいえば、親や先生の提案?

だけどこういった「誰か」の提案は、その「誰か」の価値観に基づいています。

 

「誰か」がいいと思った、うまくいったと思っても、当の「本人」にには合わないかもしれない。

時代に合わないかもしれない。

 

ここでも、「自分が何をしたいか」が基準になります。

 

 

それさえはっきりしていれば、だれかの提案が自分にとっていいかどうか、判断できます。

 

自分で選択肢を探すこともできます。

 

 

たとえば、今はアジアが伸びていて、留学先としても、就職先としても世界的に大変注目されています。

 

「進路としてのアジア」が選択肢になります。

 

これは、先生や親にはできない提案かもしれません。

その世代、時代のアジアのイメージを持っているからです。

 

そして、多くの場合、残念ながらそのイメージを払拭することは難しいでしょう。

 

また、今までにない選択肢を提案したとして、子どもがそれを選んだ結果の責任が持てないと思ってしまう傾向もあるのではないでしょうか。

 

 

 

「選ぶ」は「考える力」を育みます。子どもを信じて待ち、その選択を認めたい。

 

 

子供は自分が選んだものを親に認めてもらえると、

「私が選んだものが正解!」

と感じて自信が持てます。

 

反対に、子供が選んだものを

「おかしいよ」「それはやめたら」

と否定し続けていると、

「私が選んだものは間違っているんだ、お母さんが言っていることが正しいんだ」

と感じて自分で選ばなくなります。

 

 

ものごとの判断基準が、「お母さんが良いと言うかどうか」になります。

 

子供はお父さん、お母さんが大好きです。

お父さんやお母さんが言っていることは全部、マルなんです。

 

お父さん、お母さんも子どもが大好きです。

だからこそ、子供を守りたいがゆえに自分の成功体験からくる価値観を押し付けてしまうこともあります。

 

 

子どもに選択を委ねるというのは「放任主義」とも取られる場合がありますが、そうではありません。

 

子どもが選んだものを肯定するということは、子どもを心から信頼していないとできないからです。

 

 

「うちの子が自分で考えて選んだものは正解!」

と信じて子どもが答えを出すまで待つ。

そして、子どもが考え抜いて出した答えは、認める。

 

 

子どもの日常の小さな選択を尊重することが、実は生涯にわたって自分で「考える力」を育むことにつながります。

 

 

こちらもおすすめ

今日からできる!子どもに考えさせる毎日の習慣②親の心の整えかた